2000/08/22
| ナスカの地上絵 |
〜古代マヤの死生観と生命の十字架〜
ペルー中部の沿岸、1000平方キロメートルにも及ぶナスカ大地の上に、見るものを圧倒する壮大な“地上絵”が遺されている。地上絵の存在が明らかになったのは、1927年だった。当時、付近を飛ぶ小型航空機のパイロットから、地上に何十本もの直線が引かれているという報告が相次いだ。地上絵を最初に発見したのは、ペルーの航空測量斑のメンバー、トルビオ・メヒタ・セスッペ。ナスカ高原の砂漠上空を飛んでいたとき、彼は思わず自分たちの目を疑った。眼下の砂漠が、見渡す限り、巨大な動物たちの絵で覆い尽くされていたからだ!
地上絵のスケールがあまりにも大きく、空中からしかその形を識別できないため、飛行機が発明されるまでは、誰もその存在に気付かなかったし、南米大陸に君臨したインカ帝国人も、それを滅亡させたスペイン人侵略者たちも地上図形の存在をまったく知らなかった。パン・アメリカン・ハイウェイが地上絵を横断する形で建設されてしまったのも、ナスカにそんなものが存在するとは、当時誰も思わなかったからだ。描かれた線は、地上から見ると、表土が削られてその下の白っぽい土が露出した浅い溝のようにしか見えないので、無理なきことではあるが。
数百平方キロメートルにも及ぶナスカの裸の大地は、現在までに確認されただけでも、1万3000本を超える“滑走路”のような幾何学図形や、最大幅60メートルもあるハチドリ、巨大な蜘蛛、サル、キツネ、シャチなどの、さまざまな動植物をかたどった具象図形で覆い尽くされている。これまで多くの考古学者や科学者、冒険者たちがナスカの地上絵の謎に挑んだが、それがいつ、誰の手によって、何の目的で描かれたのか、詳しいことは何もわかっていない。ただ、紀元100年から800年の間、イカ、ナスカなどの海岸部の砂漠地帯に栄えた文化の名残とみられているに過ぎない。
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巨大さを別にすれば、図形の作り方そのものは非常に単純素朴なものである。平原の表面に堆積する黒ずんだ茶褐色の層を10センチほど削り取り、その下の粘土質の白黄色の土を露出させるだけでよいのだ。年間降雨量わずか数ミリという、数千年来変らぬ乾燥気候、石からの放射熱で地表近くの空気の移動がなく風蝕を免れたこと、石灰質の砂地が湿気を吸い込んで石をしっかり固定する役目を果たしたこと、などの環境条件が幸いして、先に述べた簡単な作りにも関わらず、地上絵は現代まで消えることなく残った。むろん、これらの好条件は偶然ではなく必然である。
地上絵の製作者たちは、この地方特有のそうした環境条件を熟知していたからこそ、神聖な地上絵を描き、後世に残すための絶好の土地として厳選したのだ。ナスカの地上絵は、正確にいうとインカ文明の遺跡ではなく、インカ帝国の出現するよりはるか以前、古代アンデス山中の各地に興亡を繰り返した多数の地方文化の一つ、ナスカ文化の遺産とされる。特に、ナスカ北西にあるパラカス半島に栄えた<パラカス文化>の影響を受けているとされる。パラカス文化とは、ペルー中部の海岸一帯に広がった、アンデス文明最古の文化である<チャビン文化>のことを指す。
チャンビン文化は、紀元前850年から前200年に栄えた<チャビン・デ・ワンタル>という遺跡に因んで命名されたもので、その遺跡では大規模な石造神殿や高さ4.5メートルもある石の神像などが発見されている。チャビン文化の源流と目されている文明は、ナスカ北方、スーペ渓谷のアスペーロにおいて発見されているが、日乾し煉瓦で造られた神殿風の建造物は、なんと紀元前2600年前後にまで遡るとされる。ナスカの地上絵のルーツは定説より意外に古いのかもしれないが、それ以上のことは推測の域をでない。ナスカの地上絵が、上空から見るために描かれたことは間違いない。問題はそこからである。
◆地上絵の作成方法と解けない謎
一説には熱気球を使って、古代ナスカ人が天空に上り、上空から眺めたのではないかとも言われるが、ナスカの地上絵はあくまでも巨大な幾何学図形が主役であり、人間の目を楽しませるような具象図形は、極めてマイナーな存在である。地上絵作成の過程で、何らかの必要性から熱気球が用いられた可能性は否定できないが、少なくとも一万三千本の直線は、上空から見る目的を前提として、人間の創作衝動をくすぐるような図形ではないだろう。一方で、宇宙考古学の先駆けであるエーリッヒ・フォン・デニケンは、ナスカの地上絵は古代の宇宙飛行士のために描かれた“滑走路”だったと主張する。
確かに、上空を飛んだ研究者によって、巨大な矢印や誘導路、1982年には滑走路としか思えないような広大なスペースも発見されている。しかし、ナスカの地上絵が描かれた先史時代に、滑走路を必要とする飛行機などあったはずもない。デニケンは高度な文明を持った異星人が飛来したと主張するが、垂直に離着陸する宇宙船なら、長い滑走路は不要なはずだ。アスファルトで覆われているならともかく、滑走路のように見える一帯の地盤は、飛行機や宇宙船のような大型の乗り物が離着陸するには柔らかすぎる上、矢印の多くは丘の方角を向いているので、もしそれに従って着陸しようものなら、丘に激突してしまう。
地上絵を作成するのに高度な文明を持った異星人の技術など借りる必要はない。地上絵が“どのようにして”作られたかという疑問は、マリア・ライヘ女史の長年にわたる研究の成果ですでに解明されている。マリア・ライヘは、地上絵の解明に打ち込むあまり、“ナスカの専属考古学者”と呼ばれたほどの非常に有名な研究者である。1946年に初めてナスカにやって来たとき、彼女は、かつて地上絵の線に沿って木の柱が一定の間隔で立っていたことを耳にした。これは、古代ナスカ人が考案した土木工法を暗示している。二本の棒を立てれば、その間に直線が描ける。二本の棒から外れない位置に新たな棒を立てれば、延長線を次々と引ける。
具象図形に関しては、その原画となった2平方メートルばかりの小さな絵が多数発見されており、地上絵は同じ倍率で拡大して描かれたことが判明している。すなわち、地上絵の製作者はまず縮尺モデルでデザインを考案し、それを分割して区画ごとに木の柱を立て、相似形の理論と標準化された長さの単位(ライヘによれば0.66センチ)を用いることで正確な拡大率を実現し、忠実にデザインを模写していったと考えられるのだ。ナスカの地上絵における最大の謎は、その作成方法ではなく、作られた理由である。マリア・ライヘの基本的見解は、地上絵の正体は巨大な暦であるというものだった。
彼女は、ナスカ高原一帯には、作物の植え付けと収穫時期を暦から割り出していた世界最初にして最大の農業国があったと考えていた。もしそうであるなら、日月星辰が昇る位置を示す示す直線は、明確な目印になったはずであり、長いもので40キロ以上にも及ぶこれらの直線の多くが、凹凸の激しい砂漠の地形にも拘らず、ほとんど曲がらず、まっすぐに伸びているのは、地上絵の直線が星々の位置を指すよう製図されたことの証左ということになる。最も有名な仮説であるが、数学者ジャラルド・ホーキンズ博士が、コンピューター分析によって諸天体の運行を調べた結果、地上絵と星々との合致は、偶然の確率以上ではないことが証明されている。
◆マヤの十字架と生命の樹
地上絵は、ナスカの他に南米のあちこちで発見されており、そのいずれもが畏怖の念さえ抱かせる美しい線画であるが、中には一風変った地上絵も描かれている。ペルーのピスコ湾に残る『生命の木』と呼ばれる巨大な枝付き燭台の絵がそれだ。その構造は三叉に別れ、古代ユダヤの神殿で用いられた聖なる燭台メノラーを彷彿とさせるが、奇妙なことに、その先端は190キロほど離れたナスカの方角を指している。『生命の木』は名前が示す通り、南米各地で崇敬された聖なる宇宙樹を示しており、古代マヤの遺跡にも、同様な『生命の木』を数多く見ることができる。

例えば一般に『マヤの十字架』と呼ばれる聖なるシンボルは、古くは世界樹(もしくは宇宙樹)と呼ばれる生命の根源だった。実際それは白い樹皮を持つ熱帯ジャングルの巨木“セイバの木”であると言われ、マヤの十字架の最も初期の原型を示しているとされる。先古典期中期の終わり頃栄えた都市国家、イサパの遺跡から発掘された石碑には、天に向かって聳え、やがてそこから無数の枝が分かれて世界を潤すセイバの樹が描かれている。イサパで発掘された石碑には、『ポポル・ヴフ』の最も古い部分を成すと思われる神話的モチーフが見られ、イサパはマヤ文明とオルメカ文明の接点となる遺跡として注目されている。

こういった南米に古くから伝わる宇宙樹の観念が、マヤ独特の哲学的宇宙観で象徴化されたものこそが『マヤの十字架』なのだ。マヤには二つの神の結合に象徴されるカバウィルと呼ばれる独特の二元論が存在し、二つの根源的対立概念―天と地、父と母など―の協力関係によって創造的な行為がなされ、世界が発展してゆくと考えていた。詳しくは別項を参照願いたいが、ポポル・ヴフの中から簡単な例を挙げれば、テペウ(雄の蛇)とグクマッツ(雌の蛇)、ツァコル(創造者)とビトル(形成者)、天の心と地の心などなどである。マヤの十字架の起源は二元論を示す神秘思想なのだ。
現代を生きるセソルドーテ・マヤ(シャーマン)によれば、マヤの十字架は北から南へと走る“一本足の光”(カクルハー・フラカン)と、太陽の運行を象徴し、東から西へと走る“輝く光”(ラサ・カクルハー)との直角の交わり、そして天頂からそれらの交点を天低に向かって突き抜ける“小さな光”(チピ・カクルハー)を寓意的に描いたものであり、三次元を表す三つの直線の交点、すなわち宇宙の中心部には天の心(フラカン)が生じ、そして宇宙の意思が誕生するという。このシンボルは古代マヤ遺跡の石碑やコデックス(絵文書)などに頻繁に現れる。
◆パカル王の石棺と天空の星々
例えばメキシコ人人類学者アルベルト・ルス・ルイリエールがパレンケ遺跡で発見したパカル王の石棺に彫られた見事なレリーフがある。このレリーフは先ほども登場したエーリッヒ・フォン・デニケンによって古代の宇宙飛行士として紹介され、一躍脚光を浴びたが、確かに両手を操縦桿のようなものにあて、足をペダル状のものにかけ、体を丸めて座席に座った人物は宇宙飛行士のようにも見える。よく見ると、宇宙船と見紛う奇妙な乗り物の後ろからは、ロケット噴射のような炎が噴出している。非常に有名なレリーフであるが、当然これは宇宙飛行士などを描いたものではない。
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| パレンケで発見されたパカル王の石棺。 | マヤの十字架。パカル王の石棺と比較せよ。 |
この石棺と同様なモチーフは、同じパレンケの『葉の神殿』や『十字架の神殿』にも見られるが、それらは全て縦に見立てることが基本なのだ。そうして見ると、宇宙船のように見えたのは、三つの枝を持ったマヤの十字架であり、パカル王の死出の旅を厳かに見守る世界樹が描かれていることが分かる。その樹の先端には聖なる宇宙鳥ケツァルコアトルが止まっており、また横に伸びた両枝の先端には誕生を意味する双頭の蛇が描かれている。さらに、ロケットの炎のように見えるのも、実は大地の神が口を開けているところであり、台座の上に仰向けに横たわった王が、死の国シバルバーへと堕ちて行く様子を表している。
これに関して『ポポル・ヴフ』の第二部では、当時のマヤの死生観を窺い知ることができる、興味深い物語が収められている。それはポポル・ヴフの中でも非常に古い物語に属すると考えられている“フンアフプーとイシュバランケーの物語”である。二人の兄弟は死の国の主フン・カメーを倒すためにシバルバーへと旅立つのであるが、出発に先立って地上にトウモロコシを植え、自分たちが死んだときにはこのトウモロコシも枯れてしまうだろうと言い残した。実際、二人の兄弟は黄泉の国で息絶えてしまい、地上のトウモロコシも枯れてしまったのであるが、死んだと思われたトウモロコシが新たな芽を出すと二人の兄弟も復活し、フン・カメーを策略を弄して倒すや、奇跡的に地上へと帰還するのである。
実はパカル王の石棺に描かれている宇宙樹もトウモロコシの十字架なのだ。仏教における沙羅双樹のように、人間の生と死を表したトウモロコシは、死の国へと旅立つパカル王の新たな生命の芽生えを祈願しているのである。ポポル・ヴフは二人の偉大な兄弟の最後を次ぎのように締めくくる。「こうして二人は、シバルバーの連中をみな平らげたので、別れを告げ、ただちに光に包まれて天に上っていった。そして一人は太陽に、もう一人は月となってしまった。…中略…こうして二人は天を住まいとすることになったのである。そしてまた、シパクナーが殺した四百人の若者たちも天に舞い上がって、この二人の伴侶、つまり空の星に身を変えてしまったのである。」
天にはフラカンであるケツァルコアトルが座し、聖者を迎え入れるのである。ナスカの地上絵の謎を解く鍵も、こうしたマヤの死生観と天空に輝く星々が握っている。つまり、地上絵は天空を横切る日月星辰に捧げたメッセージであり、ナスカ高原一帯は天に上り星となったケツァルコアトルや神の聖者、そして自分たちの祖先を祀る聖域だったのだ。ケツァルコアトル(マヤではククルカンやグクマッツ、インカのビラコチャ神も同義の神)は天の三体の心の一柱であり、中米の全古代文化を通じて一貫して信仰されていた。彼の伝説には「東方の未知の地へ去った」、あるいは「天に昇って金星と化した」とされており、地上絵は彼の再降臨を促す大いなる道標であったとも考えられるだろう。