
独り言‐ユダヤの神々‐
◆トリニティ
トリニティとはいわゆる“三位一体”である。世界の古代宗教を調べてみると、三人の神々が宇宙を創造したり、あるいは三人の神々が八百万の神々を統べる特別な立場にあることが分かる。それは至高の神々であり、宇宙の根本原理であると見なされることも少なくない。しかし、普通、三位一体と言った場合、キリスト教の教義を指す。詳しく言えば、キリスト教の一派であるカトリックやプロテスタントの神学である。神は唯一であるが、三つのペルソナ(位格)を持つという思想だ。
実際、聖書(ここでは新約聖書)を紐解くと、そこに三人の聖なる存在が登場することが分かる。言わずと知れた、“御父”“御子”“聖霊”である。至聖三者と呼ばれた至高の神々であるが、困ったことに、キリスト教の母胎となったユダヤ教の聖典旧約聖書では教義的に神はただ一人、唯一絶対神ヤハウェのみであるとしている。旧約聖書の神ヤハウェ自らが、神は一人しかいないと語っているからだ。とくればここで矛盾が生じる。三神を認めればヤハウェの御言葉に逆らうことになるし、唯一神を認めれば、三人のうち二人が神ではないことになる。
むろん論争はあった。当初はイエス・キリストを純粋な人間であるとしたり、水の状態変化のように一人の神が姿を変えて現れているのだと無理な主張をする者もいた。しかし、神学者たちが集まる公会議において最終的に正統な教義として採択されたのが先述した三位一体なのである。むろん、三位一体はあくまでも神学的な解釈であり、それが絶対的に正しいという保証はない。クリスチャンが何と言おうと、キリストの教えが後代に纏まっていく過程で教義にジレンマが生じ、無理やり解釈を作り上げて教義の整合性を保ったというのが本当のところだろう。
実際、四つの福音書は、時代や学派の違いによる福音記者たちの異なる立場が如実に現れており、人間的なイエスを描くマタイによる福音書とイエスを神のロゴスの顕現として描くヨハネによる福音書では神学的に雲泥の差がある。そもそも確固とした一つの教義を作り上げようというのが無理な試みなのだ。まあ、神学的な解釈はどうあれ、新約聖書に至聖三者が存在することは間違いない。それは例えば、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…(マタ28:19)主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが…(ニコリ13:13)などの聖句から導き出すことができる妥当な結論である。
◆ユダヤの神とカナアン神話
先にも言ったが、ユダヤ教の神はただ一人、絶対神ヤハウェのみである。しかし、昔からそうだったとは限らない。旧約聖書が編纂される以前、ユダヤ教としての教義が定まる以前において、イスラエル人はオリエント世界に広く普及していた神々への信仰――すなわち多神教の思想を持っていた。これは否定できない事実である。なぜなら、旧約聖書で“神”を意味するヘブライ語の一般名詞『エル(el)』は、元来、カナアンの至高神――天上の大会議において神々を裁く“いと高き神”――の名前だったからだ。
クリスチャンなら信じられないだろうが、これは神話学の常識である。カナアン地方では天界の宮廷にいる最高の王はエル(メソポタミアのアヌに相当)であるとされ、神の一族の父である彼はあまたいる神々の中で全ての決議を認可する首長であるとされた。ちなみに、イスラエルの預言者に邪神として忌み嫌われたカナアンの地方神バアル・ハダドは、エルの行政官であり、エルの息子たちの中で最も力強い神々の主だった。かつてのユダヤ教徒たちはヤハウェを唯一神としてではなく、こうした神々の宮廷、神々の家族の中で大きな力を持った“エルの息子の一人”として捉えていた。
実際、旧約聖書の中にはこうしたカナアン的神概念の明らかな残存物が見出される。申命記32章の讃歌には、イスラエルの歴史が始まったはるか昔、“エルの息子たち”の集会において、イスラエルが“いと高き者”によって神ヤハウェに割り当てられたことが記されている。(ちなみにこの部分がよほど奇異だったのが、古いギリシア語版では“エルの息子たち”を“イスラエルの子ら”というまったく別の単語に置き換えて、混乱を避けようとしている)遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。
いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。主(ヤハウェ)に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。むろんここで言う“神の子ら”とはカナアン神話でいう“エルの息子たち”――天の宮廷に集うあまたの神々――のことである。ヤハウェは“いと高き神”の息子であり、その神によってイスラエルの嗣業を割り当てられたと明記されている。
キリスト教徒は旧約聖書の神ヤハウェを万物の父なる神という意味で“御父”と呼ぶが、ユダヤ教の発祥においてヤハウェは御父どころかエルの息子たちの一人だったのである。では、ユダヤ人はヤハウェ以外の神々(他のエルの息子)も神として認めていたのか、あるいはヤハウェを神の仲間たちの第一人者に過ぎないと考えていたのかと言えば、一概にそうとは言えない。これには当時の人々にも意見の相違があったようである。その最も顕著な例は詩編82篇で、神々の宮廷をあからさまに批判している。神は神々の会議(文字通りにはエルの息子たち)の中に立たれる。
神は神々の中で、さばきを行なわれる。「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。…中略…」私は言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ、しかし、あなたがたは人のように死に、輝くものたちの一人のように倒れるであろう。」エルの息子たちの多くはイスラエルの絶対神とは違って、敵に負けたり、あるいは死んでしまったりすることが知られている。かのバアルも豊穣の神の典型的パターンとして、冬になるとその玉座を神アッタルに奪われ、黄泉の世界へと下っていくと信じられていた。イスラエル人は、エルの息子たちの中で真正な神はただヤハウェのみという考えを強めていたのだ。
預言者エレミヤの時代になると天上の宮廷という概念は薄れ、ヤハウェを除くエルの息子たちは人間の手で作られた霊を持たない偶像の神々に過ぎないという考え方が一般的となった。ことエレミヤ書10章に関しては、先述の申命記の不可解な箇所に関する反論が顕著に表れている。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず、霊を持っていない。彼らは空しく、また嘲られれるもの。裁きの時が来れば滅びてしまう。ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主。
申命記によれば、いと高き神は神の子ら(エルの息子たち)の数に従い民(国の境)を分けた。ヤハウェに割り当てられてのはイスラエルであった。その他の民族にはバアルを始めとした異教の神々が割り振られたが、その神々は霊を持った神ではなくいずれは滅びてしまう偶像の神々であると言う。この時点で、ユダヤ教の神はヤハウェの父にあたる“いと高き神”と天の宮廷の統領であった絶対神ヤハウェに絞られてくる。もっとも唯一信仰が形を整えていく過程で、いと高き神の存在は薄れていった。ちなみに、父なる神と子なる神という関係でキリスト教の神々と対応させると、いと高き神=御父、ヤハウェ=イエスということになる。こういった神学に関しては絶対神ヤハウェを参照願いたい。