2000/10/06

天の御使い(前編)

 


 旧約聖書と新約聖書には“天使”と呼ばれる特別な存在が登場する。天使とはその名の通り、神の御使いのこと。ユダヤ・キリスト教の教義において、天界に住まう絶対神ヤハウェの仕え人のことである。天使は我々人間とは異なる非常に完成された美しさと気高く崇高な精神を持った、神に近い存在であるとされる。それゆえ、西洋絵画に描かれた天使を見てみると、その背中には大きな2枚の翼が生え、手には剣や鞭、あるいは薔薇の花を持ち、美しい姿をした青年や女性として描かれている。場合によっては、頭の上に光り輝く円冠が浮いている。

 ここには天使が天界に住む以上、地上に生を受ける我々人間よりも、はるかに高レベルな存在(肉体的にも霊的にも)であるという思想が底流にある。しかし、はっきり断言してもいい。現在、我々が一般的に思い描く天使の姿――外見的な特徴からその特質まで――はまったくの誤りである。日本語訳聖書にある“天使”とは、英語のエンジェルを翻訳したものだ。英語辞書でエンジェルを調べれば、そこには“天使”と記されているだろう。天使というと、それだけで何か特別な存在のように錯覚してしまう。しかし、英語のエンジェルはギリシア語の“アンゲロス”から派生した言葉である。

 アンゲロスは純粋に“伝令者”という意味である。エンジェルは固有名詞となってしまったが、本来、英訳聖書ではメッセンジャーとでも訳すべきなのだ。さらに、ギリシア語のアンゲロスはヘブライ語聖典の“マラク”を訳した言葉である。マラクの意味も、純粋に“使い”であり、それ以上の特別な意味はない。また、天使を語る際に避けて通れないのが、天使最大の特徴とも言える翼の存在だが、ここにも大きな誤解がある。実は、西洋絵画において当然のように描かれる翼の存在は、後代の神学者たちの創作なのだ。旧約聖書、新約聖書を問わず、翼を生やした天使などまったく登場しないのである。

◆ケルビムとセラフィムの正体

 意外かも知れないが、これは動かしがたい事実だ。翼を生やした天使が登場するのは、比較的後代に書き記された聖書外典偽典の中だけである。外典偽典の世界観は、アケメネス朝ペルシアの宗教である“ゾロアスター教”の影響を多分に蒙っている。たとえば、ゾロアスター教の教義における聖なる存在“フラワシ”は、ユダヤの守護天使のような存在だが、そのレリーフには蝶のような大きな翼が描かれている。エノク書やエズラ書などの後代の黙示文学の著者たちは、旧約聖書に出てくる天使を、神の従者という性格からこれらペルシャの天的存在と同一視し、天使にも大きな翼を描くようになった。

 これが災いして後代、マラクには翼が生えているというイメージが定着してしまったのだ。もっとも、原因はそれだけではない。旧約聖書の中にはレビヤタンをはじめとした古代オリエントの神獣がしばしば登場する。旧約聖書の舞台、中東パレスチナはオリエント世界の真っ只中に位置した以上、その思想潮流に巻き込まれるのは至極当然のことである。古代オリエントの神獣の中には有翼の存在が数多くいて、イスラエル王国においても、それらはある種の美術工芸品や天的存在を表す象徴的な表現として用いられてきた。困ったことに、その中には後代の天使とそっくりな生物も登場する。

契約の聖櫃アークの模型 古代エジプトの棺。ケルビムが描かれている

 いい例が、“ケルビム”や“セラフィム”である。絶対神が降臨する聖なる箱、契約の聖櫃アークの蓋には、このケルビムを象った像が2体乗せられていた。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。(出19:29)ただし、後代の天使のように背中から翼が生えていたわけではなく、両腕の付け根から腕の代わりに鳥のように翼が生えていた。これはちょうど、古代エジプトの壁画に出てくるバーやマアトなどの有翼の神々の姿と一致する。むろん、この場合のケルビムは一種の美術品に過ぎず、そこにマラク(御使い)として性格など微塵もない。

 後に、ケルビムは天的存在や天界の奥義の象徴として、しばしば預言書や黙示禄の中で使用された。例えば、難解な象徴や暗喩で満ちていることで知られるエゼキエル書には、四つの顔を持った複雑怪奇な生物が登場し、それをケルビムと呼んでいる。またその中には、四つの生き物の姿があった。……それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。……その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。(エゼ1:5−10)同じ存在がヨハネの黙示禄にも出てくる。そこでは四つの顔をそのまま四つの生物に置き換えている。

 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。(黙4:7−8)アークの上に乗っていたケルビムとは大きく姿が異なるが、これらは全て象徴であり、元来、確固とした姿など持っていないのだ。ケルビムが四つの生き物として表されるとき、その中心もしくは上部には必ず玉座に座った神がいる。このとき、ケルビムの一群をメルカバーと呼び習わすが、それは天界の奥義を凝縮した高度な象徴表現であり、決して実体を持った生物が降臨したわけではないのだ。

◆マラク・ヤハウェの実像

 カトリックの神学において、ケルビムやセラフィムの正体は天使であるというのが一般的な解釈である。天使博士の異名を持つトマス・アクィナスは著書『天上位階論』において、天使には九つの位階があり、セラフィムは熾天使という最上位の階級、そしてケルビムは智天使という2番目の階級を指すと主張した。ちなみに、天使九位階は上位の階級から順に熾天使、智天使、座天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、天使からなる。しかし、先ほど言ったようにケルビムやセラフィムは、旧約聖書において、天上の生物として記されてもマラク(御使い)として描かれたことはない。

 しかも、ケルビムの姿が場面によってまったく異なってくるように、その複雑怪奇な容貌はすべて象徴として描写されている。イザヤがセラフィムを見たのは幻の中だったし、エゼキエルがメルカバーを見たのは“天が開いた”とき、すなわち一種のトランス状態でみた幻視だった。幻視の映像は象徴と比喩で満ちている。例えば、黙示者ヨハネは幻視の中でイエス・キリストにまみえ、その姿を次ぎのように描写している。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。

 ……口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(黙1:14−16)
本当にこんな姿だったら、イエス・キリストは化物だろう。真っ白な身体は汚れのない清純さ、燃え盛る目は高い霊性、両刃の剣は民族を裁く言葉……という具合に全ては象徴であり、実際にイエスがこのような姿をしていたわけではない。同じことはケルビムやセラフィムについてもいえる。もし、天界にそのような生物がいたとしても、その実際の外見は幻視で描写されるような異形の姿ではないであろう。では、マラクに関してはどうか?マラクはケルビムとは違い、預言者の幻視の中で現れるだけではなく、実際に地上に遣わされることがある。

預言者エゼキエルの見たケルビム。
天界の奥義を凝縮した高度な象徴体系である。
アブラハムの前に現れた三人の天使。
彼らは人間のように食べ物を摂った。

 マラクの正体を知るためには、幻視の映像に頼らず、直接地上に遣わされて、多くの人々に目視されたマラクの記述を探さねばならない。たとえば、『創世記』には神の御遣いが人間と見分けのつかない姿で現れたというシーンがある。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。(創18:1−2)この三人の旅人、一見するとただの人間のようだが、実は神ヤハウェに遣わされた天使だった。アブラハムは最初、それに気付かず三人をもてなし、食事までさせている。三人の天使の方もちゃっかりとご馳走になって、疲れを休めている。

 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。(同18:8)イメージと合わないかもしれないが、天使も飯を食うらしい。その後、2人の天使はソドムに向かい、もう一人の天使はゴモラに向かう。その退廃した状況を視察して、善人がいないようなら町を滅ぼそうというのだ。ソドムの住人たちもやはり彼らが天使であることに気付かない。それどころか、男色を好む彼らは天使を強姦しようとさえするのである。むろん、二つの罪の町は予定通り硫黄の火で焼き滅ぼされることになる。

 こうして見てみると、天使の外見は我々人間とまったく同じものであるらしい。すくなくとも、翼が生えていたり四つの顔があるとかいう描写は一切ない。外見のみならず、その肉体の組成も人間と大差ないようである。食べ物を取ったという記述や、人間と格闘をしたという記述がそれを裏付けている。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。……ヤコブは「わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエルと名付けた。(創332:25−31)

 神というと誤解を生むが、旧約聖書におけるエル(神)はしばしば天使のことを指している。ただし、ミカエルやガブリエルの語尾にエルが付くように、エルは神の諸力を分け与えられた者としての天使の属性を表し、決してエロヒム(天地を創造した神)ではないことを注意願いたい。さて、旧約聖書を読んでみてはじめて分かることだが、天使とはあくまでもマラク(使い)であって、それ以上の存在ではない。はっきりいって、彼らは我々人間とまったく同じ姿と組成を持った存在なのだ。ただし、天使は神と同じく天界に住んでいるが、人間は不浄の地上界に住んでいる。この相違が天使の正体を解く鍵となる。

◆天界の人間と地上の人間

 天使といっても人間である。体力や肉体の組成は我々地上に住む人間と何ら変わらない。こういうと、天使は超常的な力を使ってさまざまな奇蹟を行うではないかという反論があるだろう。しかし、聖書世界における奇蹟とは神の所業であり、決して他の一個人の力によって成し遂げられるものではない。たとえば、大預言者モーセは紅海を割り道を作ったが、それはモーセ個人の超能力によって為し得たのではなく、あくまでも神がモーセの手を介して奇蹟を起こしたということだ。同じことは天使にも言える。奇蹟を行うことは決して天使の専売特許ではないということだ。

 天使と人間の外見は変わらない。違いは天界に住むか、地上に住むかだけ。もっとも、天使はすべて預言者クラスの聖者だが、地上の人間には邪悪な者も多い。あと、天使には寿命がない。こういった相違が、天使と人間を見分ける試金石となる。では、地上にいる人間が天界に運ばれて、天界に住むようになったらどうなるのだろうか?旧約聖書には実際、そういった例がいくつかある。典型は預言者エリヤだ。エリヤは死せずして天に召された。彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。(王下2:11)

 エリヤがその後、地上に戻って来たという記録はない。すなわち、彼は不浄の地上界から、聖者の住まう天界へと引き上げられ、神の御前で仕えることになったのだ。こうなると、天使と預言者エリヤの違いはない。実際、エリヤはこのとき身を変えられ、天使と同じ不死不滅の肉体を与えられたという。新約聖書には、預言者エリヤが悠久の時を経て、再び地上に降臨した次第が記録されている。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。……ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。

 ……彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。(マタ17:2−8)
光り輝く雲とは預言者エリヤの見た火の戦車と同じもので、天界への入り口を意味している。ちなみに、ここにはモーセの降臨に関する記述もあるが、実際、古代ユダヤの伝承にはモーセが死せずして天に取り上げられたという言い伝えがある。フラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』によると、モーセはモアブの谷で雲に包まれ、忽然と姿を消したという。おそらく彼もエリヤのように身を変えられて天界に住むことになったのだろう。さらに、神の御使いが地上に降臨したときも、エリヤと同様、炎に導かれて天界へと帰還している。

 すると、祭壇から炎が上るとき、主の御使いも、その祭壇の炎と共に上って行った。……マノアはそのとき、この方が主の御使いであることを知った。(士13:20−21)イエス・キリストもまたオリーブ山で昇天した際、雲に包まれて姿を消している(使徒1:9参照)。イエスは昇天したのち、天の御父の御許に帰ったという。このことから、雲や炎に包まれた人間は、みな天界へと運ばれたことが分かる。さて、そうなると、だ。天に上ったエリヤやモーセはそのまま天使になったとは考えられだろうか?天使と身を変えられた預言者は、はっきいってまったく違いがない。そして、天使と預言者の関係を考えるとき、決して避けて通れないのが預言者エノクの存在である。

 


 


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